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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

編集に関わる仕事をずいぶん長くやってきた。雑誌を作るだけではなく、そのアイデアをテコにしていろんな仕事にも首を突っ込んだ。うまくいったのもあれば、そうでないのもある。この仕事でなければ入れない場所にも入れたし、会えない人にも会えた。どれもがとてつもなくおもしろく、自分の宝になった。遊びが仕事で、仕事が遊び。編集仕事ってそんなところがある。この仕事の面白さと広がりをこの仕事に興味を持ってくれる人に向けて書いていきます。

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第5回アートに関心を持とう

コロナの影響で世界中にお金が溢れているそうだ。経済活動を抑制していて、誰もがその苦しみに喘いでいるのになぜ? というのが素直な反応だろう。しかし各国の政府が景気刺激策として支援金や協力金のような形でお金をばらまいた結果、そうなっているのだ。

日本だと昨年国民ひとりにつき10万円支給された。コロナ不況で仕事を失ったり、給与を減らされたりと困窮している家庭にとっては干天の慈雨であるが、生活に困っていない人にとっては通帳の10万円の桁の数字がひとつ増えただけのこと。天から降ってきた金だからと無駄遣いした人もいれば、そのままにしている人もいる。なかにはそんなお金で投資をしたなんて人も。

また売上の減った中小企業を支えるために無利息、無担保で最大2億円まで借りられる融資制度も制定された。利息なしでお金が借りられるなんて、寡聞にも親以外に知らなかった。

社長さんの中には高級時計を買ったとか、クルマを買ったなんて人もいる。もちろんマンションなどの不動産もだ。

これは投機が目的である。お金はお金を持っている人たちに集まるようにできている。資本主義とはそういうものだ。

高級品、高級車、そして不動産。このタイミングで売れているものだそうだが、同様に勢いがあるのがアートマーケット。世界中のアート作品が軒並み値上がりし始めているという。

美術愛好家が増えたというわけではなさそうだ。こちらも多くが投機目的なのかもしれない。もちろんそれまでも上り調子だったアートマーケットではあったが、コロナでまたブーストがかかったようだ。

先日行われた東京国際フォーラムで催された「アートフェア東京」も大盛況だった。元ZOZOの前澤さんのバスキアで日本でも関心の高まった高額アートであるが、彼に続くアプリなどで沸くニューリッチが、予約困難な寿司屋を通り越して、アートにきたというからこの市場はますます盛り上がっている。

バスキアといえば30年ほど前、ニューヨークのマーチン・ローレンスというギャラリーで葉書サイズほどの髑髏のドローイングを買おうかどうか迷っていたとき、そんなバカ高い買い物するのは愚者のすることだ、的なことを耳元で囁いた親友をいまも恨んでいる。いまでは少なくとも価値は30倍以上。投資、財産の保護神アブンダンティアにぼくはいつも見放されている。

こうしたオークションハウスのような機関が扱うアートの世界になると、もはや我々のような庶民には無縁である。クルマ一台、マンション一戸買うのにもんどりうっているのに、何億もするアート作品を簡単に買える酔狂な人は多くない。昔四畳半に住んでフェラーリに乗っているという人を雑誌の記事で読んだことはあるが、ワンルームにマーク・ロスコという気概のある人物がいればぜひ話を聞きに行きたいものだ。

しかし無縁だからと言ってアートに無関心でいられるかというと話は別だ。アートというとこうしたファインアートだけではなく、美しいと思うこと、あるいは心地いいと思えることを楽しむこと全般と定義したい。世界中の現代美術館などで行われているインスタレーションなんかは、買えるもの、手を入れられるものではなく、見て聞いてそして体験して、参加して味わうことである。金沢21世紀美術館の「スイミング・プール」(レアンドロ・エルリッヒ)の空間に身を委ねているときにも、初夏の気持ちのいい夕方、気に入ったカフェのパティオで風に頬を撫でられながらマルゲリータを飲んでいるのもアート的な時間の過ごし方なのである。

無機質なワンルームに一枚ポスターをかけるだけで、あるいは一差しの花を生けるだけでも部屋の空気ががらりと変わる。これもアートである。

人間の三大欲求(食欲・睡眠・性)が満たされると次の欲が生まれる。マズローの法則ではその上に安全、社会的、承認、自己実現と続くが、ぼくが思うに次に展開されるのは文化である。落ちているものを拾って食べたり、狩った獲物にそのままかぶりついていた我々の祖先は、すり潰したり、切ったり、焼いたりと、調理という文化的進化を遂げた。小動物の死体を焚き火で燻すところからはじまり、今日のミシュランのレストランなどの一皿にまで料理技巧は昇華した。もはやそれは食べられる芸術といってもいい。

ラスコーの洞窟に原始の人たちがどうして絵を描いたかはわからない。しかし何もない自室の白壁に何か絵でもポスターでも飾りたくなるのは、彼らから綿々と続く遺伝子の力なのか。

アートというと高尚だとか、とっつきにくいというアレルギー反応を起こす人もいるかもしれない。しかし繰り返すが、心が豊かになれる空間、あるいは時間を創り出してくれるもの、それがアートなのである。

震災などの大災害があったとき「ぼくらの仕事って不要不急で世の中に必要とされていないよね。いちばん最初に潰れる業界だわ」なんて会話が飛び交う。昨年の最初の緊急事態宣言のときにもそんな言葉が交わされた。ぼくらに限らず第三次産業で働く人なら覚えがあるだろう。しかし逆にいうと第三次産業に関わる人が多いというのは先進国の顕れだ。食べるだけ、生きるだけで精一杯なところでは、カルチャーは培養できない。

なぜ日本にスティーブ・ジョブスは生まれない?

ベストセラー『世界のエリートはなぜ『美意識を』高めるのか?』(山口周著、光文社新書)の中で著者はこれからの経営層はMBAではなくアート思考が大切だと説いている。演繹法的な推論で経営を行うと、経営のコモディティ化が起きて競合と同じような結論になり、優位に立てなくなるというのだ。要するにマーケティングなど数字やデータをベースに物事を進めると、それは競争相手も同じだから優劣つかない。同じようなものやサービスを提供するとなると、優位に立つには価格を下げるしかない。

どこかで聞いたことのある話じゃないか。日本の家電メーカーはまさにこの呪縛に囚われて外資に買われたり、事業転換を強いられている。

直感や第六感、自分の好き嫌いで物事をジャッジできる経営者って日本にいるのだろうか? 上で述べたアート的な時間を過ごしたことがある人だけが、自信を持ってものやサービスを開発できるのではないか。日本にスティーブ・ジョブスやイーロン・マスクが生まれない理由のひとつがこれだろう。

「よいサービスを与えられるのは、よいサービスを受けてきたことがある人だけ」

アメリカで知らない人はいない、ライフスタイルコーディネーターでカリスマ主婦のマーサ・スチュアートの言葉だ。

コンビニで仕事の段取りが悪いアルバイトや、融通の効かない慇懃無礼な高級ホテルのスタッフを見るたびに彼女の言葉を思い出す。

よい仕事ができるのは、よい仕事を見たり経験したことがある人だけだ。いわゆる所作を覚えるというやつ。とんかつが好きでとんかつ屋に通っている人は、とんかつを作る流れ作業がわかっている。家ではじめてとんかつを作ってもそれなりにできる。そういうことだ。

グラフィックデザイナーの仕事や作品などを見たり研究したり勉強したことがない人が、よいデザイナーになるのは難しい。車輪を再発明するようなものだ。円周率を再計算して3.14を証明するよりも、やることは他にある。

アートに関心を持つ、ということはそういうことだ。

世の中、デザインされたもので満ち溢れている。美術品はもちろん、上で述べている料理、建築、インテリア、ファッション、そしてライフスタイルをいろどる全般。それらあらゆるものに関心を持って、どうしてこういうものが作られたのか、目的は何か、なにを狙っているのかなどをあらゆる角度から見る習慣を身につけたい。ものごとの原理は何か? そこからスタートするといろいろ見えてくるものがある。この件についてはまたいずれ。

アートとは人間が生きていくなかで必要最低限のこと以外のことなのだが、それ以上のことなのである。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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