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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第7回コミュニケーションを大切に

コミュニケーション能力という言葉を耳にするようになってからずいぶん経つ。文字通り、コミュニケーションに長じた技能のことだと思うのだが、意外と間違った意味で使われているような気がしてならない。

転職面接に来た人に対する評価に「コミュニケーション能力が高い」なんてあると、つい疑ってしまう。会ってみるとたいていコミュニケーション能力が高いのではなく、ただ社交的な性格のおしゃべり好きな人だったりする。こちらの質問を正確に理解せず、自分の言いたいことだけを長々と喋り続ける人もいる。まるでいまの菅総理と記者のやりとりのような、噛み合わない面談も少なくない。緊張しているのかもしれないが、それでは高評価というわけにはいかない。

逆に社交力が見劣りするタイプでも、話が噛み合う人もいる。こちらが問いかけているポイントを押さえ、理路整然と会話が弾む。好感が持てるのはこちらのタイプだ。

キャッチボールで例えると、取れない球を投げるので何度もカゴから新しいボールを取り出して投げる人と、胸元に取りやすいボールを投げる人との違い。どっちとキャッチボールしたいと問われれば誰もが後者を選ぶだろう。

しかし、取りにくい球を投げている人は、自分がどんな球を投げているかあまり気にしていないところが共通しているようだ。これでは始末が悪い。

会議などでも誰かが問題点を問いかけて一定の答えか対策を考えているときに、その話題から外れて次の話題に移る者もいる。これも厄介。集まって問題を解こうとしているのに、解決案の前に次のトピック、そもそもその会議の議題でもない問題を口にされると会議は踊る。井戸端会議やただのおしゃべりならそれでもいいが、みんな時間を割いて問題解決に集まっているわけだから、優先順位を弁えろといいたい。

こういう人はあれこれ喋るのでコミュニケーション能力が高い、なんて錯覚しそうだがそうではない。ポイントがずれてる人である。

日常生活では、誰がどんなコミュニケーションをしようがそれは自由だ。エンドレスに気ままにおしゃべりをすればいい。

しかし仕事となるとそうはいかない。

コミュニケーション能力が高いというのは、相手の言いたいこと、問いたいこと、聞きたいことの要点を理解し、的を射た対話を行うということである。相手の態度、発言、イントネーションなどから総合的に判断し、一を聞いて二がわかる、そんな状態のことだ。

相手に早口で一方的に捲し立てられて、話についていけなくなることなんて誰にでもある。コミュニケーション能力の高い人というのは、そういう場合、誰がどこを理解していないのかを感じ取り、言葉や例えを変えて説明してくれる人のことだ。自分が伝えたい事柄を過不足なく伝えるというのは、結構骨の折れる仕事だと理解している人である。

多くの人は完全に理解しなくても、聞き直すのも面倒だし、場合によっては失礼かなと思ったりして、蔑ろに理解してわかったふりをする。これはよくない。間違った理解で間違った結果が生まれるより、わかるまで何度でも聞いてほしいと思う。ミスコミュニケーションによるアクシデントは誰もが避けたいことのひとつ。

伝言ゲームで間違いが起こるのは、受け手の理解不足と曲解である。

先生あのね、ではなく要するに、から

大体、人なんて他人の話をロクに聞いていない。

メラビアンの法則、というのがある。

人は話をするとき、言葉だけで意味をやりとりしているわけではない。言語以外の視覚や聴覚からくる情報の方が、よりコミュニケーションに影響を及ぼすというのだ。

この法則では、人が得るのは視覚情報からが55%、聴覚から38%、そして言語はわずか7%という。例えは古いが、小泉純一郎がなぜあそこまで人気になったかわかる気がする。

確かに表情やジェスチャーの方が、話している内容より記憶に残るのは、UCLAのメラビアン教授に再確認しなくてもわかる。

不機嫌な人よりも機嫌のいい人のほうが話は弾む。小声でぼそぼそ話す人より、朗々と自信を持って話す人の方が説得力がある。何を話しているかより、どう話しているかの方が場合によってはコミュニケーションには重要なのだ。

音痴を治すのはなかなか骨の折れる仕事だ。しかし泳げない人を泳がせるのは訓練でなんとかなるかもしれない。コミュニケーション力も後天的に取得できるスキルである。

表情が乏しく不機嫌でいるより、ぎこちなくても笑顔の方がはるかにいい。問題はそれに気づけるかどうかだ。

メラビアンの法則をよく実感するのが、近年盛んになったチャットである。いまでは生活インフラとなったLINEなどでミスコミュニケーションは起こりやすい。

質問なのか、確認なのか、普段の会話では語尾のトーン上げたり下げたりするのでそれが伝わるが、文字だけだと誤解も生じる。場合によってはぶっきらぼうに受け取られる場合もある。そういう意味でスタンプや絵文字が発達したのは必然だ。

メラビアンのいう視覚や聴覚情報は絵文字やスタンプが補う。エモーショナルな感情もそうだ。

実際会うとしれっとしているのに、チャットではものすごいエモい人もいる。その逆の人もいるが、コミュニケーションツールが発達した現在、ツールの使い方を間違えると要らぬ軋轢を生んだりもする。

隣の席同士でもチャットでコミュニケーションするのが当たり前になってきたからこそ、むしろこれからはこうしたツールの使い方が肝心である。視覚聴覚情報の方が、言語よりも多くを語れるのに、どうしてこうなってしまったんだろうと言ってもどうしようもない。

流行りのZOOM会議も直接会話するよりもいくらか互いの理解度が落ちるような気がする。きっとそうしたデータを収集し、解説してくれる論文が近く出そうである。

コミュニケーションの本質は、伝えたからあとはよろしくという一方通行ではなく、相手に理解してもらうことだ。腹落ちしてもらうということ。腑に落ちる、というか腑に落としてもらうことだ。

メールを送ったからといって、相手が一字一句舐めるように読んで理解していると思ったら大違い。これだけ毎日大量の情報が行き交うのだから、メールなんて誰もがナナメに読んでいるという理解でいるべきだ。簡素に要点をまとめ、トリッキーな文にならない配慮が必要である。

相手に理解してもらえるよう、胸元にボールを投げる。

このポイントがわかっていれば、コミュニケーション強者になれる。

それと蛇足ながら、仕事上での連絡や報告などのコミュニケーションにおける心得について。

結論から先に言おう。英語の文法ではないが、主語の次は述語だ。何があったか、何を伝えたいかを冒頭に。そして説明や解説はその後だ。

児童に作文を教えるとき、「先生、あのね、」という冒頭文を書かせる学校がある。作文が苦手な子供は冒頭文がなかなか出てこないから、これでリズムに乗れる。週刊誌や月刊誌でも冒頭文が決まっているコラムはある。同じことだ。

子供の作文によくあるのは、起きてから朝ごはんを食べて学校に来るまでの出来事を時系列に並べていく。それはとても微笑ましい文であるが、このような形で仕事の連絡や報告をされるとイライラする。

大人の報告は「要するに」からだ。

詰まるところ何があったのか、それが聞きたい。最初から平たく言ってくれ。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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