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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第8回本を読もう

「練習が仕事で、試合は集金」。これはあるスポーツ選手の言葉。

 ぼくは小学時代から高校の途中までずっとサッカーをやっていた。多くの人に違わず、練習はあまり好きなほうではない。

小学生時代の練習がどうだったかはあまり定かでないが、強豪チームではないので遊びのようなものだったと思う。

しかし中学からは、昭和の運動部らしくスパルタで、練習の始まりは必ずランニングからだった。

どの運動部も練習はランニングから始まり、整理体操前のランニングで終わる。練習中もずっと間断なく走っている。走るのはしんどい。そこにゲーム性を見つけられないからかもしれない。しかし走れないと試合で役に立たない。つまり走ることが練習で、練習とは走ることであった。最上級生になったころのロードワークでは、行きの途中でさぼり、帰りの集団に混ざって走ったふりをしていたけど。

まぁそれくらいの熱量の、やる気のないサッカー部員だった。

働くようになってしばらくして、夜遊びの友人たちとサッカーチームを作ろうという話になった。毎晩朝まで飲んで踊っている仲間たちである。

クラブ・ジャマイカというバーが高樹町にあり、主にそこに集まっている人たちで結成したチームだった。ボブ・マーリーはサッカーをする。それが理由だ。

まだJリーグは遠い未来の話。それでも代々木公園のサッカー場を取るのは、容易ではない。そんな時代でもそれなりにサッカー愛好家がいたんですね。

久しぶりのフルコートは、雑草の混ざった芝生でガタガタ。むしろジャマイカのグランドの方が綺麗だったかもしれない。

何人かのサッカー経験者はいたけれど、みんな笑えるくらい走れない。もう何年も走ってないんだから当然である。以前の動ける残像に体を合わせようにも体が動かない。運動会の足のもつれたお父さんのような状態だ。

草サッカーチームはその後どんどんチームメイトを増やし、未経験者は振り落とされそれなりの形になっていく。そうなると楽しくなるんですね。で、もっと動けるようになりたいなんて欲も出てくる。そこからジムに入会し、走るのが習慣になった。

先生やコーチにやらされているのではなく自主的に走って30年。サッカーのために走り始めたが、途中で目標がフルマラソンや健康維持などに変わるものの、いまだに走っている。楽しいかと問われると返答に困る。でもこの年になってサッカーをやっても、それなりに動けるというのはとても楽しい。

走るはしんどい。人によっては辛いかもしれない。しかし美味しい果実を得るためには、その労苦は志願してでもやりきらなければならない。

雑誌編集というのは人に会って話を聞き、それを文にする。あるいは多くの資料を漁って内容を要約し、整理する。それらを合わせて目の前に並べ、ページやスペースに合わせて整える。写真が必要な場合もあれば、イラストを発注しなければならないこともある。それらすべての材料を揃え、整合させるのが仕事だ。

求められることは多い。ビジュアルの良し悪しを判断できるアートディレクター的なセンスも必要だし、イラストや写真のトレンドも知っているキュレーターのセンスも欲しい。

しかしその点は外部に仕事を任せられるかもしれない。世の中には、キラ星のごとく輝くクリエイティブディレクターやフォトグラファー、まるで現代アーチストと思しきイラストレーターもアートディレクターいる。

 編集業務でもっとも重要で基本的な資質はなにか。それは文章を読めるということである。

もちろん最近あちこちで聞こえるコミュニケーション力のようなものも必要だ。というかこれはどこの業界でも大事なことで、ここでことさら取り上げる必要はない。編集者にとってあらゆる種類の人と澱みなく会話ができるというのは、ギタリストがどんなスタイルのギターでも弾けるくらいあたりまえのことでなくてはならない。しかしそれ以上に大事なのは、文章を正確に読むということだ。

文章が読めないと資料を読むのはもちろん、ライターなど他者が書いた原稿をチェックできない。正確な読解力や語彙力がないと、正否も正誤も判断できない。

さらに編集者は、企画書を書いたり、自身で記事も書かなくてはならない。企画書にはシンプルでロジカルなセンス、本文原稿やタイトル、リードなどは詩的なセンスが求められることもある。それらアウトプットは、膨大な量のインプットなしには成し得ない。

要するに文章を読めないと、書けない。

赤ちゃんは初め、耳から言葉を理解する。そして話すようになる。これと同じように文章も初め読むことから始まり、書くのはその後ということになる。

小学校の国語のカリキュラムもこの順序じゃないかな。

文章を読むというのは簡単なようだけど、正確に読むというのはそうとは言えない。

近年、中高生の読解力が落ちているという記事を新聞などで読む。数学の文章題で正答率が落ちているともいう。これは数学力が落ちているのではなく、問題を正確に読めてない、つまり読解力のなさに由来するものだ。

国立情報学研究所教授の新井紀子さんが、その中高生の基礎的読解力を調べるためにリーディングスキルテストを開発した。全国の2万5000人が受けたという。

例えば以下の問題。

次の二つの文の内容が、同じか異なるかという質問。

・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
  ・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

正答率は高校生で71%。中学生では51%。

もちろんこれを読んでいるあなたたちが間違えるはずがない。でも30%に近い高校生がこんな文章を正確に読めてない。

そういえば適菜収さんの『もっと言ってはいけない』にも同じようなデータが載っていた。そのなかで、日本人の3分の1は日本語が読めない、と指摘している。

先進国の学習到達調査PISA(ピサ)は新聞や週刊誌でその順位がよく報じられるが、その大人版がPIAAC(ピアック)。16歳から65歳の成人を対象として、仕事に必要な「読解力」「数的思考力」「ITを活用した問題解決能力」を測る国際調査。OECD(経済協力開発機構)加盟の先進国を中心に24カ国・地域のおよそ15万7000人を対象に実施されている。日本では2013年に「国際成人力調査としてその結果がまとめられている。

このテストはレベルが1から5までの5段階評価。ホワイトカラーの仕事には、レベル4以上が必要とされている。

それによると誤答率は27.7%。前述のリーディングテストの結果と同じだ。

驚くべき数字とみるか、こんなものと見るかは人によるだろう。しかし編集を志す人間がその3分の1に含まれているとなると困る。

この仕事においては、運転免許を持ってないタクシードライバーがいないのと同じように、高度な国語力は必須である。

国語力を高めるいちばんの近道は読書だ。

もっとも編集という仕事を目指そうという者は、気づいたころから本が好きだったはずである。子供の頃から読書に明け暮れ、時が経つのも忘れ、いずれ本に関わる仕事がしたいとぼんやりと考えながら大人になった人たちだ。

もしあなたがこれにあてはまらず、なんとなくスタイルで編集という仕事がカッコ良さそうとか、ファッションやインテリアなどのライフスタイル全般に関わる仕事がしたいと編集を目指していて、あまり本を読んでないとすれば、いまからでも遅くない。とにかく読め。徹底的に読め。圧倒的に読め。

サッカーがうまくなりたかったら走らなくてはならないのと同じで、良い編集者になるためにぼくもたくさんの本を読んできた。

幸いここ日本は、世界でも稀に見る読書大国だ。

世界に冠たる偉大な作家たちを多く輩出しているのもそうだが、世界中のほとんどの古典や、重要な論文などが母国語である日本語で訳されている。哲学、思想、歴史、自然科学などあらゆる分野の「知」が、平易な現代日本語で読める。これは先達たちが我々に残してくれた極めて貴重な遺産である。

途上国の人々がどうして英語を熱心に勉強し、日本人がそれに遅れているかというと、ここにも問題のひとつが隠れている。

途上国の人たちがローカルの言語に訳されていない「知」にアクセスするためには、英語を習得しなくてはならない。それらを日本語で読める我々は、英語取得のモチベーションは相対的に劣る。

ここは言語の取得が主題ではないのでこれは置いておく。

そういう意味で我々はいかに恵まれているかわかる。

しかも公共図書館の蔵書の充実っぷりったらない。最近ではネットで在書を確認し、予約までできる仕組みが整っている。しかもそのすべてのサービスが無料。読書天国だ。

さすがに新刊ベストセラーを借りるのは、長い行列に並ばなくてはならないが、読んでなかった古典を片っ端からあたっても、きっと仕事を引退した後にも在庫は残っていることだろう。

ジャンルはなんでもいい。人文、古典小説、ミステリー。文章のリズム、語彙の選定、ユニークな比喩など得るものが多い。それ以上に少なくない発見もある。辛い目に合わなくても、痛い目に合わなくても、読書によって疑似体験した経験値は残る。

何も特定の分野の専門家を目指すわけではない。暇つぶしと気楽に構えて片っ端から読もう。

先日亡くなった、読書家で知られるジャーナリストで作家の立花隆さんの読書術を引いておこう。

1 金を惜しまず本を買え。
2 必ず類書を何冊か求めよ。
3 選択の失敗を恐れるな。
4 自分の水準に合わないものは無理して読むな。
5 読みさしでやめることを決意した本でも、一応終わりまでページを繰ってみよ。
6 速読術を身につけよ。
7 本を読みながらノートを取るな。
8 人の意見やブックガイドのたぐいに惑わされるな。
9 注釈を読み飛ばすな。
10 本を読むときは猜疑心を忘れるな。
11 おや、と思う個所に出会ったら、必ず、この著者はこの情報をいかにして得たか、あるいは、この著者のこの判断の根拠はどこにあるのかと考えてみよ。
12 何かに疑いを持ったら、いつでもオリジナル・データ、生のファクトにぶちあたるまで疑いをおしすすめよ。
13 翻訳書でよくわからない部分に出会ったら、自分の頭を疑うより、誤訳ではないかとまず疑ってみよ。
14 大学で得た知識など、いかほどのものでもない。若いときは、何をさしおいても本を読む時間をつくれ。

ちなみにぼくは自分自身でこの読書術の2番目をもっとも重視してきた。氏の本のなかにそれを解説しているところがあり、うろ覚えだが何かを調べようと思ったら、書店に並んでいる類書を全部買って読め、するとその分野に関しての専門家といわないまでも、おおよそのアウトラインが理解できると。

仕事で何かを調べる時に、このやり方はものすごく役にたった。一気に7冊も8冊も類書をレジに持っていく時の変な優越感。それなりの出費になるが、なかなか気持ちいいものだ。まだ読んでないのに賢くなった気がする。もちろん締め切りもあるので精読するわけにはいかない。自分なりの速読というかナナメ読みではあったが。

実際この教えに従って、何度かそういう読書経験をしたのだけど、3番目にある「選択の失敗」も多い。1番の、金を惜しまず本を買えというのは、まあそういうことなんだなと。つまり水準以上の本を求めたということだ。

難しい人文科学書でお手上げになって書棚の飾りになっているものも少なくない。

読書に限らず、週刊誌や雑誌を読むのも役に立つ。

最新のトピックは、人とのコミュニケーションにも功を奏すし、なにより最新の情報にアクセスできる。作家の洒脱なエッセイなどは文章のリズムを身体に刻みこむにはもってこいの軽い読み物だ。

最近ではこの分野でもテクノロジーの恩恵にあずかれる。

ドコモやアマゾン、楽天などのプラットフォーマーが、雑誌のサブスクリプションサービスをはじめている。

ぼくはドコモの「dマガジン」を購読しているが、月額400円で200誌以上が読める。一部掲載されないページがあるようだが、それでもすべてを読みきれない。読もうと思えば、すべての可処分時間をあてなくてはならないくらいの分量である。

仕事に就いてから、ただ言われたままに仕事をこなす。これではいい仕事人生にはならない。

来たボールだけ打ち返すだけならずっと補欠のまま。レギュラーになりたいんなら、ひたすら練習が必要だ。

30年間も走ってると風邪をひいて走れないとか、長期間ケガで走れないこともある。しかししばらく休んで走っても、それなりに走れる。こういうときに長年の貯金が効いてくる。

編集者の仕事は読書なのである。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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