PROFILE
1974年生まれ、東京都出身。「L’ECHOPPE」、「BOUTIQUE」、〈J.B. ATTIRE〉など、ブランドやショップのディレクションを行うクリエイティブディレクター。2024年2月には、自身初のファッションブランド〈ファウンダ(FOUNDOUR)〉がリリース予定。
PROFILE
1993年に友人らと共に〈FORTY PERCENT AGAINST RIGHTS®〉の名でシルクスクリーンを用いた制作活動を開始。1996年にはより本格的なアパレルラインとして、これまで体得してきたカルチャーの影響を投影した〈WTAPS〉をスタート。2015年には自身の今と次世代への繋がりをテーマに、普遍的なアイテムを揃える〈DESCENDANT〉を立ち上げ、現在はこれら3ブランドのディレクターを務める。
服をデザインするというよりも、グラフィックをつくりたかった。
ー今回は金子さんと西山さんの対談ということで、すごく意外な組み合わせですよね。
金子: そうですね。こういう対談のお仕事って多いですか?
西山: 最近はあまりないですね。

ーそもそも金子さんのようなセレクトショップ出身の方々と接することはあるんですか?
西山: なくはないですけど、普段から肩書きやコミュニティみたいなことを意識してなくて。ご縁があれば、その流れでお話をするという感じですね。
金子: ぼくらが勝手にそういうコミュニティみたいなものを意識しすぎていたのかもしれません。いまのお話を聞いていても、西山さんってすごくフラットですよね。
西山: たしかに周りから見ると、コミュニティに属している印象はあるかもしれないですね。原宿界隈にいる、みたいな。
金子: だからこそ、ぼくらがいまこうして話しているのを見て、意外性を感じるひとも多いと思いますね。
ーおふたりは同い年で、東京出身という共通点もあります。だけど、これまで交わることがなかった。
西山: 20代の頃ってなにされてました?

金子: 高校を卒業してすぐにアパレルの量販店で働きはじめて、その会社には22歳までいたんです。その後はベイクルーズに入って、「エディフィス」というお店に配属になってからはずっとバイヤーをしてきました。
西山: どんなテーマでバイイングしていたんですか?
金子: フレンチですね。だけど、ぼくはアメカジからファッションに入ったので、全然わからなかったんです。それを教えてくれるひともいなかったので、「フレンチとは?」ということを常に頭で考えたり、妄想しながら仕入れをしていました。知らないことだらけだったから、常に研究しているような状態。それがすごく楽しくて、夢中になってましたね。
西山: お店にも立っていたんですか?
金子: 立っていました。途中からはバイイングに専念するようになるんですけど。そういうこともあって、ずっとファッションに傾倒していたんです。カルチャーを追う余裕がなかった。
西山: そうだったんですね。同じ時代を生きているけど、やっぱり辿っている道は違いますね。
ー西山さんはずっと原宿にいらっしゃったんですか?

西山: 自分は渋谷生まれで、もともとスケートボードが原点なんです。スケートショップが原宿にあって、ぼくにとって原宿は、ファッションよりもそっちの認識のほうが強いんですよ。のちに「NOWHERE」っていうお店を(高橋)盾くんとNIGO®さんが立ち上げて、ぼくもすこしづつ参加するようになるんですけど。さっきコミュニティの話がでましたけど、その周辺でぼくはいちばん若かったので、客観的にシーンを見ていましたね。自分が中心にいるという認識はなかったです。
金子: 先輩たちがワーっとやっているのを見ていたというか。
西山: そうですね。10代の頃に〈ハーレーダビッドソン〉のバイクを買って、そのローンを支払わないといけないから、ピザ屋とビリヤード屋と〈ステューシー〉で仕事を掛け持ちして。なのでスケートボードやバイクの文化から服に入っていった感じです。
金子: それで服をデザインするようになったんですね。
西山: 服をデザインするというよりも、グラフィックをつくりたかったんですよ。スケートボードに描かれているグラフィックとか、映画や雑誌、音楽のジャケットが好きで、そういうものに影響を受けていました。それで絵は描けないのでコラージュしたりしたものをTシャツに刷るようになったんです。
金子: それをいまでも続けられているんですね。
西山: 服のことはあとから知っていくんですけど、ファッションに関してはうちの若いスタッフのほうが詳しいかもしれないですね。

ーこちらの西山さんのスタジオにも、ご自身の興味あるものがたくさん置いてあると思うんですが、たとえば古着にハマって集めたりとか、そういう時期もあるんですか?
西山: 集めるという感覚はなかったですね。ぼくは文化が好きだったので、その文化で聴かれている音楽、見られている映画、読まれている本などから知識を得ていたんです。それで「この文化のひとたちは、こういう服を着ているんだ」ということを知って。そういうものが自然と自分のものに加わっていったんです。だからバイカーファッションをするつもりもなかったし、スケーターファッションをするつもりもなくて。むしろそこから外れるようにしたかったんです。
金子: バイクに乗るときは、どういう格好をされていたんですか?
西山: ハーレーっていまみたいに若い人が乗っていなくて、当時はおじさんの乗り物だったんですよ。黒いTシャツの上に革のベストを着て、〈リーバイス®〉を穿いてエンジニアブーツを合わせるっていう。それでぼくたちは黒をやめて白にしたりとか、〈パタゴニア〉を合わせたりして、とにかくステレオタイプにはなりたくなかったんです。

ー誰もやっていないことをやろうとしていた。
西山: 当時は御法度だったかもしれないです。だけどミックスカルチャーの時代だったから、自分たちもその影響を受けていましたね。
金子: ぼくは三鷹出身なんですよ。
西山: 暴走族とかいっぱいいたんじゃないですか?
金子: そうなんです。だからめちゃくちゃ恐くて(笑)。買い物は吉祥寺とか、上野、下北に行っていました。渋谷や原宿は二十歳を越えるまでほぼ行ったことなかったですね。
西山: たしかに渋谷や原宿は、金子さんが好きそうなものがなかったかもしれないですね。

金子: 雑誌はめちゃくちゃ読んでいたので、情報は入ってくるんですけど、渋谷や原宿は自分が歩んできた文脈とは異なる。だからぼくが立ち入っちゃいけないと思っていたんです。その領域にとにかく近づけなくて。いま思えば勝手に自分で境界線を引いていたのかもしれないですけど。
西山: なるほど。その感じ、なんとなくわかります。金子さんって正統派だと思うんですよ。さっき話していた原宿の先輩たちって、自分よりも4歳から6歳くらい年上なんですが、そのひとたちはヨーロッパの文化が強いんです。UKのパンクとか、そういったカルチャーですね。だけどぼくは『ポパイ』が発信するアメリカの文化が好きで、そこで得る情報は先輩たちと共有できなかったんですよ。きっと世代的なものだと思うんですけど。
なので、金子さんが吉祥寺や上野、下北に行っていたという感覚がなんとなく分かります。下北は学校の帰り道だったので、ぼくも毎日のように行ってました。