今も変わらない創作姿勢とライフスタイル
―既に展示は終了していますが、膨大なアーカイブをグラフィックのアート作品として昇華された貴重な展示でした。改めて、ここではYOSHIROTTENさんの過去の活動についても少しお聞きしたいのですが、そもそもグラフィックデザインとの出会いはなんだったのでしょう?
子供の頃、パソコンを使った学校の授業でコンピューター室にスクリーンセーバーが映し出されたWindowsのデスクトップがずらっと並んでいて、その光景がまるで新しい世界の入り口のように思えて。すごく興奮したのを覚えています。いまとなってはそれこそが原体験と言えるものだったのかなと思います。『Radial Graphics Bio』でも会場の1Fで、そのイメージをインスタレーションとして複数のモニターを並べて展示していました。あとは中高生の頃から音楽やストリートアート、ファッションにのめり込んだことですね。スケボーをしながらグラフィティを描いてみたり、Tシャツにシルクスクリーンをしてみたり。遊びから興味が広がっていったのだと思います。
―なるほど。その後はグラフィックデザインの学校に進学されるのですか?
デザイン系の学校に進学しましたが、その当時は学校よりも外の世界で受けた影響が大きくて。当時、学校のあった中目黒や恵比寿の周辺には「大図実験」や「GAS BOOK STORE」、「DEPOT」などのアートスペースだったり、デザインや写真に特化した古本屋やライブハウスとクラブが混在する「MILK」があったり、裏原カルチャー全盛の後期時代ではありましたが、原宿より中目黒が感度の高いエリアとして認知されていたり、新しい場所としてディープなスポットが点在していて、見るものや触れるもの全てが刺激的で、創作に繋がるインスピレーションに溢れていたんです。昼間は学校、休日は本屋やギャラリーへ通い、夜はクラブで遊び尽くす。そんな日々を繰り返し、気がつくと東京でのコミュニティが広がっていましたね。
―刺激のあるコミュニティやライフスタイルと出会い、一気に世界が広がっていったと。
そうですね。当時は仲間内でイベントのフライヤーを作ったり、Tシャツのデザインを制作したりはしていたんだけど、仕事っていう感じではなくて。そんな頃に専門学校の求人にレコード会社のインターンが募集されて、自分の好きな音楽の仕事ができる! と思って応募したんです。それである日、自分の作品をクリエイティブディレクターの方に見せたら桑田佳祐さんのソロツアーのロゴを依頼されたんですけど、その仕事こそが初めて自分が手がけた作品が世に出た仕事でした。それから卒業を控えた時期に、色校正を届けにデザイン会社の「POSITRON」に訪問することがあって、オフィスに足を運んだら、自分の好きなカルチャーが詰まっていたんです。膨大なレコードとフィギュアに囲まれて、直感的にここだ! って思って代表の土井さんに頼んで入社させてもらいました。
―「POSITRON」にはどれくらい在籍されていたのですか?
実質は5年くらいですかね。仕事は音楽アーティストのグラフィック制作が多かったですが、それ以外にもロゴを作ったり、企業のパッケージデザインを作ったり、色々していました。あと独学で映像も学んでいた時期でもあったので、ライブのVJなんかもしていましたね。「POSITRON」でないとできなかった仕事を沢山経験させてもらえたことも貴重だったんですけど、それ以上にデザインの基礎やカルチャーを学べたのが今の自分にとって大きな財産になっています。
―そして24歳にして独立。ようやくここからがYOSHIROTTENさん個人としてのキャリアの出発点になるわけですね。
独立してからだとそうですね。あてもなく仲間と3人で千駄ヶ谷のヴィンテージマンションの一室をアトリエとして借りて始め、その2年後に神宮前に移動しました。そのマンションにファッションデザイナーやスタイリストなど様々なクリエイターがいて、そうしたコミュニティとの出会いも良い刺激でしたし、今も関係性のある方々がほとんどなので、改めてそうした繋がりの大切さを実感しますね。