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Ray and LoveRock「写真を撮る人」Ray and LoveRock(れい あんど らぶろっく)写真を撮る人、ファッションエ ディターでもある人。フツウの人ではありますが、生きることはどちらかという と下手です。文章もロックンロールしていければ良いなぁ。「ものや写真、少し はカルチャーのことなんかを書いていきたいですが、お酒のこと、下ネタも好き なんで、お付き合いください」http://blog.livedoor.jp/rayandloverock/

紙飛行機で宇宙旅行。 --ものについて。時々酒と、下ネタと。--

Ray and LoveRock
「写真を撮る人」
Ray and LoveRock(れい あんど らぶろっく)写真を撮る人、ファッションエ ディターでもある人。フツウの人ではありますが、生きることはどちらかという と下手です。文章もロックンロールしていければ良いなぁ。「ものや写真、少し はカルチャーのことなんかを書いていきたいですが、お酒のこと、下ネタも好き なんで、お付き合いください」

http://blog.livedoor.jp/rayandloverock/

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スコッチウイスキーとカズオ イシグロ

2012.05.18

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P1030895.JPG ある作家に連れられて、<アモーレ>を出て、もう一軒、とバーの重厚なドアを押して、なかに入った。スコッチなバーは荘厳な印象もあったけれど、それでも別段、お金持ちが集まっているわけではなく、会社帰りの人たちが食事をしたあとの一杯と駆け込んだ感もある人がいて、にぎやかな店だった。
 別室というか、多少壁一枚しきられた部屋で、われわれも食事が終わり一服、というところだったので、さっきまでのワインの香りを忘れないで、それでも新しい酒に移行する、そんな時間を過ごそうとしていた。
 そこで作家がわれわれに振る舞ってくれた酒は、この世に酒として絞り出され、香り立つようになってから、早50年とか、100年とかの齢を持つものになったスコッチウイスキーであった。
 まるでキンさん、ギンさんくらいの年の酒だから、それなりに円熟というものを感じさせることは予想できたが、さすがは作家、そんなちんけなイマジンはどこ吹く風、まるで南の島でフルーツショップにでも紛れ込んだみたいに小さな別室は甘いフルーツの香りに包み込まれたのだった。
 琥珀を携えたショットグラスは、古いオークのテーブルに鎮座していた。
 この酒が歩んできた長い長い旅はここでひとつの終焉を迎える。
 パパイヤ、マンゴー、と文字にしてみただけで、フルーツスキャンダルが咲きそうなんだが、スキャンダルはショットグラスのなかにあった。
 50年、100年というという時を越えて、そして、遥かイギリスの地から日本でその封を切った長老は、まるくまるく、すこぶるなめらかな、たとえようもない液体ヘとその変化を遂げていた。
 まったくの逆方向の話ではあるが、時が何かに染み込むもののひとつの話をする。
 お札を大量に燃やすとなんの臭いがするか? そんなことを考えたことがおありだろうか? 
 答えは人間を焼く臭い、である。
 なるほど、人が触り、人が使い、人のためになり、人をだまし、人を翻弄させてきたその物質には「手垢」が着き、そして「怨念」、はたまた「情念」、あるいは「欲望」といったものが、焦げてしまった鍋の底のように、いつまでもこびりついてやがて、焼かれたときに「人」の姿ならぬ、人を焼く臭いと化して現れるのだろう。
 年を重ねるとは、こうした人の歴史とも多く絡んでくるものなのだ、とつくづく思うことだ。
 このときの長老も人の生き死にはもちろん、戦争、大恐慌、天災......、さまざまな人間的出来事と対峙してきたに違いない。違いはないのだけれど、お札と違うのは、最初に込められた、まさに「夢」みたいな物が樽のなかで静かにその時を待っていたので、甘く、そして芳醇なものを抱えてわれわれの前に出てくることができたのだ。
 寝かすことは時に奇跡をも生むのだと知る。
 ワンショットに授けられた、価値の意味は重い。
 寝かすことでしか得られぬ喜びという味わいは琥珀のなかで語られるべき文学だったのだ。 

 とはいえ、なんでもかんでも寝かして良いというわけではない。けれども、それでもついつい寝かしてしまって、寝かせていた分の時間をもったいなく思ってみたり。 カズオ イシグロの『私を離さないで(原題Never Let Me Go)』を購入したのは初版の出た、まだ間もないときだった。素晴らしい文学がある――つまり、読んどいたほうが良いよ、と言われた――と文学話をときどきする、尊敬する女性に言われて、早速書店に駆け込んだ。その女性のオフィスに程近い、表参道、青山通りから骨董通りに入ってすぐの書店だった。
 以来、読もう読もうと思いながら、カセットテープの表紙を横目で見つつ、日々をやり過ごしていた。その間に村上春樹先生の小説は何冊か読破していた。なにか時期ではない気がしたの持たしかなのだが、出だしがぼくとしては読みにくかったことも否めない。
 やがて、この本の文庫も出て、村上春樹先生の『雑文集』でもカズオ イシグロに関してのエッセイが掲載され、いよいよ、読まなければならないなぁ、と思い始めたとき、改めて、ぼくはカセットテープの表紙に目を向け、最初の1ページから読み始めた。
 おそらく、寝かしてよかったんだと思う。もちろん、最新刊の時に読んでいれば、「最近、なんか良い本読みました?」といわれて、この本を出すことで話題を作ることもできたであろう。
 しかし、それでも、あの時(それはぼくの精神状態を含め)読んでいたら、今のようにカズオ イシグロを正しく(といって良いのかわからないけれど)読むことができただろうか? そんな風に感じてしまう。
 カズオ イシグロはイギリスの小説家である。だから、英語で書かれていて、日本語には翻訳者が訳することになる。
 日本語ができないか、というとそうでもないらしく、大丈夫らしい。若い頃はミュージシャンを目指していたらしいが、あるときから方向転換をしたそうだ。
 カズオ イシグロの文章は本当に文学を感じさせる、一流の文章だと思う。文体(といっても翻訳を読んでであるが)も、古典を感じさせるような心地良い堅さがあり、しっかりとした土地に、きちんと丁寧に土台を埋め込み、そして、まっとうな太い柱や梁で組み作られた家のように何かしら確実な文章を感じるのであった。
 イギリス文学という深い時の流れに、確実にカズオ イシグロが、背筋を伸ばして凛として立っているように見える。
 文学でしか語り得ない、静かで奥深くに流れる人の哀しみ。読了後に何度となく訪れる人間に対する疑問。自分という存在への懐疑。
 そもそも、人間が人間たり得る意識とは? 人が人を愛するときに何をもって愛を感じるのか? 何をもって愛と感じるのか? 神への冒涜を何度となく、数えきれぬほどに犯してきた人間の危険な領域への踏み込みに言葉という"力"がメスを入れる。不確かな存在であるわれわれ人間への純粋なる苛立ちをペンが深くえぐるのだ。それと同時に、不確かな存在であるわれわれの心のドアを、時にノックし、時に暴力的に叩き、やがて、深くえぐるのであった。

 カズオイシグロはずっと寝かされていた琥珀の酒のような深さを持った作家だと思った。